長いことブログをお休みしていたけれど
何もぼーっとすごいしていたというわけでもなく、
まぁ、それなりにいろんな事があった。
中でもとても大きな出来事といえば
父を見送った事であろう。
初めて、近しい人を見送り思うことが色々あったので
ちょっと長くなってしまうかもしれないけれど
よかったら
私のちょっとしたおしゃべりだと思って聞いてもらえると嬉しい。
父は亡くなる1年ほど前に肺がんを患い、
初期段階での発見ではあったものの
年齢的な事と持病などの関係で治療を断念せざるを得なかった。
緩和ケアに移ったのである。
その時点で
お医者さんからは残りの時間は1年くらいだろうと言われていた。
癌と診断されてから、
循環器系内科で診察してもらい、放射線科で転移の有無の検査。
その後放射線治療を試みるも
腰痛がひどく腰も曲がってたので
治療台に横になった時に圧迫骨折をしてしまい、
結局医師から治療はできないと断られてしまった。
そして地元の緩和ケア科のある割と大きな病院に移ることになる。
心筋梗塞を起こした数年後に起こした脳梗塞は、
父の右半分に軽いものではあるが後遺症を残し、
認知症へとつながっていった。
そして肺がんになり、
検査入院を繰り返すごとに認知症が進み状況判断ができなくなっていったのである。
自宅での看護と看取りを思い始めたのはこの頃からである。
認知症であった事もあるが
コロナが猛威を振るっていた頃であったので
入院させてしまえば「もう会えないのではないだろうか」という思いが強かった。
私は緩和ケアの担当医師が信頼できなかったこともあり
(この辺りのガンの看護についてのことはまた別にお話ししたいと思う。)
自宅でのケアにあたって、
介護する私たちが休息をとりたいときなどに数日入院させてくれること、
訪問看護をしてくれるなどの条件で
別の病院を紹介してもらった。
紹介してもらった病院の医師、看護師、スタッフの方々がとても良い方ばかりで
助けを借りながら自宅で見送る事ができた。
がんの症状とはいったいどいういうものなのだろう。
亡くなる3ヶ月ほど前から
腰に力が入らないのか急に歩けなくなり
トイレにも自力では行けなくなった。
「神様がもう死ねと言っている」
という父に
「そんなことはない、病気のせいだから仕方ない、気にすることはない」
と何度も言いい聞かせたのを覚えている。
おそらくこの時には背骨の方に転移していたのだろう。
たまに顔を歪めることはあったけれど
一度たりとも「痛い」などと口にすることはなかった。
「死にたくない」といも言ったことはなかったけれど
認知症のせいか、午前中などの記憶もすぐに無くしてしまっていたので
自分ががんだということはあまりわかっていないようだったし、
一方でわかっている風でもあった。
その日は仕事は休みだった。
数日前から父は固形物はあまり口にしないようになっていたけれど
スポーツ飲料などを口元に持っていけば
グビグビと飲んでいた。
もうすぐやってくる夏は、暑くなりそうな予感をさせるそんな6月の日だった。
「行かない方がいい、行くならすぐに帰るつもりがいい」
と私がいうのも聞かずに
「大丈夫だ」
と買い物に母は出かけて行った。
母を送り、大急ぎで帰宅すると
私はベットの横で父に語りかけた。
眠ったような状態でいることが多くなっていたし
聞いているのかどうかはわからなかったけれど。
今までの感謝と、してあげれなかったことへの後悔。
小さかった頃の思い出話。
眠っている父に語りかけた。
別に状態が悪かったわけでもないけれど
今言わなかったら、なんだか一生後悔しそうなそんな予感がしていた。
その後、横で私は1人読書をしていた。
母が出かけて2時間ほど経っていた。
「お父さん、喉乾いた?」
そう声をかけた時、
呼吸が苦しそうに変わった。
吸ったり吐いたりするのにすごく長い時間を要するようになった。
タクシーで急いで帰宅するよう母に電話し、
訪問看護師さんにも電話をした。
緩和ケアなので
亡くなる時も心臓マッサージや酸素など処置はしないのだけれども。
父の目は、焦点があってないというより
見えていないようだった。
「しっかり息して!まだ行ったらダメだよ!!」
という私の声に応えるように、
呼吸が止まって数秒経ってもなお息を頑張って吸い始めてくれていた。
何度もこののやり取りを繰り返した。
1時間くらい続いたような気分だったが
実際は5分くらいか、それよりも短かったのかもしれない。
こういう時は何を言えば良かったんだろうかと
たまに思う時がある。
行かないで、まだ頑張って!
と
死んでほしくなかったから何回も叫んだ。
「あぁ。もうその時なんだな」と
覚悟を決めて、
「大丈夫だよ、ここに居るからね、頑張ったね、ありがとうね」
と言えば良かったのか。
息を吸い、
そして最後に大きく息を吐いた後
父は帰らぬ人となった。
父が病気になって亡くなるまで、
父と一緒に私も人生の終わりを経験していた。
こんな風にあっという間に
終わっていくものなのかと。
当たり前ではあるけれど
老いて死ぬのだと、病から逃れることはできないんだと
身をもってわかったんだ。
だから思い切り、やりたいように生きましょうとか
そう思ったわけではない。
人はほっとして安堵した時に大きく息を吐く。
最後に父が息を吐いた時、
まるでマラソンでゴールしたように、
大きな舞台で演奏を終えたように、
安堵したのだろう。
苦しそうではあったけれど、そういう感じであった。
これは私の単なる夢物語だと思って聞いて欲しいのだが、
後日父の葬儀でお経が流れる中
スモークのような煙が会場に流れ出し
大きな船とそこへ向かって歩いていくたくさんの人の映像のようなものが見えた。
私はその中に父がいるのを見つけた。
父は振り返り、私に向かって満面の笑みで大きく手を振った。
本当に楽しそうな笑顔だった。
小さく手を振った私を見て、
父はまた船の方へと歩き出すと
煙はスッと消えて父も見えなくなった。
生きていれば後悔することもたくさんある。
不条理だと思うことも山ほどある。
自分がちっぽけでなんでもないことにがっかりすることもたくさんあって。
だけども
父と最後を共にして思うのは
何をなしてもなさなくても
この世を去る時はきっと
90分夢中で駆け抜けたサッカー選手のように
ピッチを後にできるのではないかという事だった。
手を振る父はそんな笑顔をしていた。
私もきっと
あんな笑顔で去るのだろう。
だったら
安心して思い切り生きよう。
思い描いた自分になれなかったとしても。
許されているのだから。
ブログを再開します。
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